#27

街づくり

街づくり

パッシブタウンの全景(2017年夏撮影、富山県黒部市)

自然エネルギー生かし設計
富山・黒部の3・6㌶に住宅など

YKKグループの最も大きな生産拠点は富山県黒部市にある。研究開発の中心でもあり、我々は「技術の総本山」と呼ぶ。その黒部の街について、あるとき創業者の𠮷田忠雄がこう問いかけてきた。

「なぜ若者は黒部を出て東京に行きたがるんだ」

私は答えた。「あなただって富山から東京に出ていったじゃないですか。若いときは皆そうですよ」

若者が地元以外の世界に憧れるのはいいことだと思う。問題は東京などへ出ていった若者が戻ってこなくなったことだ。なぜか。戻りたくなる魅力が街に欠けているのではないか。ではどうしたらいいのかと考え始めた。

YKKの副社長だった1992年、街づくりをやらせてもらうという条件で黒部商工会議所の会頭に就任した。黒部まちづくり協議会を発足させ、ワークショップに有識者も招いて「この街に足りないものは何か」を議論した。黒部を「水ギョーザの街」としてアピールもした。会頭は2001年まで務めた。

大きな転機をもたらしたのが11年3月に起きた東日本大震災だった。原子力発電所が停止し、エネルギー問題の重要性を我々に突きつけた。黒部市内にあるYKKグループの工場や社員の住宅で使われる電力の消費量は、同市全体の約5割に及ぶ。そこで取り組んだのが、3万6000平方メートル強の敷地に約200戸の賃貸集合住宅などを建設する「パッシブタウン」づくりだった。

建築用語の「パッシブ・デザイン」は自然エネルギーを生かした設計を指す。太陽熱、バイオマス、夏を中心に日本海から吹く「あいの風」などを最大限活用した街をつくろうと考えた。北陸の一般的な集合住宅の年間エネルギー消費量は一戸当たり43ギガジュールだが、これを34%減の28.4ギガジュールにする省エネ目標を立てた。

構想に着手したのは13年。土地は老朽化した社宅などの跡地を利用した。事業主体はYKKの全額出資子会社であるYKK不動産で、今も私が会長を務めている。

全体を5つの街区に分け、街区ごとに設計者を変えた。例えば第1街区の設計は米国でパッシブ・デザインを学んだ小玉祐一郎氏に依頼した。第2街区は前沢ガーデンハウスを設計した槇文彦氏、第3街区はドイツでパッシブの手法を学んだ森みわさんにそれぞれお願いした。

既に完成した第1〜3街区では自然エネルギーの活用に加え、断熱性能の高い樹脂窓の採用などにより、全街区で省エネ目標を達成している。

唯一計画中の第5街区は近代木造建築のパイオニアであるヘルマン・カウフマン氏が担当し、これが最終街区になる。それぞれの分野ですごい人が引き受けてくれた。私は嫌らしい経営者で、街区ごとに設計者を決めることで競い合ってもらおうと考えた。

「タウン」だから住宅だけではない。第4街区をYKKグループの事業所内保育施設の「たんぽぽ保育園」にしたほか、カフェやレストランも設けた。事業費は第1〜4街区の合計で約64億円。第5街区は詳細設計中だ。

現在、約190人の人が住んでおり、YKKグループの社員や家族ではない一般入居者が約15%を占める。実は私も16年から第1、第2、第3街区に住んでみた。建物の出来栄えや住み心地を確認したかったからで、各街区ともよかった。世界的に脱炭素が潮流になっており、パッシブタウンを追いかける街づくりの動きが出てくることを期待している。

#28

演劇五輪

演劇五輪

劇団SCOTの公演(2019年、富山県黒部市)

東京介さず世界を相手に
富山で活動 鈴木忠志氏に共鳴

2011年3月の東日本大震災は、私に「パッシブタウン」の建設だけでなく、YKKグループの本社機能の一部移転も決断させた。

当初より東京・秋葉原駅のそばにある本社を「YKK80ビル」として建て替える予定だった。だが震災でリスク分散の必要性を痛感。20〜30階建てを想定していたYKK80ビルが建築規制で10階建てになったことも影響した。

15年ごろには管理系や営業系など約1500人が東京で勤務していたが、その15%に当たる約230人が16年までに富山県の黒部事業所に移った。社員の家族もやってくるから、黒部での街づくりの重要性が一段と高まった。

15年3月に北陸新幹線が金沢まで開業して黒部市内に「黒部宇奈月温泉駅」ができ、この駅がYKK黒部事業所の最寄り駅になった。東京駅から最寄り駅までの所要時間は約2時間半と、それまでより約1時間短縮された。

本社機能の一部移転の追い風になったが、従来の最寄り駅だった黒部駅の周辺が寂しくなってしまった。黒部駅は北陸新幹線開業と同時に、JR西日本から運営を移管された第三セクター「あいの風とやま鉄道」の駅になった。

そこで黒部駅前にあったYKK牧野工場の敷地の一部に加え、隣接地を購入して約1万4000平方メートルの土地を確保。ここに単身者向けの寮やホールからなるK―タウンを建設し、17年7月に完成させた。

住宅は全体で100人が住めるようにして、食堂はあえてつくらなかった。単身者が街に出て飲食店や小売店を利用し、街の活性化につながるようにするためである。

街の魅力を高めるには仕事や住宅だけでなく、文化的な刺激も必要だろう。富山県には演劇がある。

19年、世界的な舞台芸術の祭典である「シアター・オリンピックス」が日本とロシアで共同開催された。日本の会場は富山県の黒部市と利賀村(現南砺市)で米国、インド、ロシア、フランス、中国など15カ国から27の劇団が来日して公演した。来場者数は8月23日からの1カ月で延べ約2万人に達した。

シアター・オリンピックスは世界各国で活躍する演出家や劇作家により1994年に創設された。その一人が演出家で劇団SCOTを主宰する鈴木忠志氏である。19年の利賀村開催を提案したのは鈴木氏で、私は実行委員会の会長を務めた。

鈴木氏は66年にSCOTの前身となる劇団「早稲田小劇場」を結成。72年にパリの世界演劇祭で成功を収めるなど世界各地で高い評価を得た後、76年に本拠地を東京から富山県の利賀村に移した。

85年8月、私は家族とともに利賀村で初めてSCOTの演劇を見て、鈴木氏に会った。演劇は前衛的で最初の頃はさっぱり分からなかったが、同じ演目を何度も見ているうちに面白さを感じるようになった。同時に鈴木氏という人間に強い関心をもった。

後にYKKのPR誌の企画で対談した。私は鈴木氏に海外に活動の場を広げたことと、利賀村に移ったことに関係はあるかと尋ねた。鈴木氏は「大いにある」と答え、「これからは『世界とダイレクトに渡り合っていく』というビジョンをもった」と語った。

東京を介さずとも世界を相手に革新的な活動ができるとの考え方に共感した。YKKグループも世界中で事業を展開し、本社機能の一部を東京から富山に移していたから、ヒントをもらった気がした。