#25

本社ビル建設

本社ビル建設

本社「YKK80ビル」の外観

グローバルな企業像表現
東日本大震災受け耐震強化

「日本の富山県にはぜいたくを許さない気風があります。あなたの質素で無駄のない建築は素晴らしく、富山の風土にピッタリ合います。ぜひ当社の独身寮を設計してください」

オランダ・アムステルダムのオフィスで建築家、ヘルマン・ヘルツベルハー氏にこう頼み込んだ。うさんくさそうに私を見ていた同氏も、最後は少し機嫌を直してくれた。その後も何度か会っているうちに「要するにケチな建物をつくればいいんだな」と前向きになってくれた。

私は無駄をそぎ落とした質実剛健な建築物が好きだ。それに予算の心配もあった。外国の建築家に設計を頼むとなると設計費の相場が分かりにくい。だから「ぜいたくを許さない気風」を強調し、くぎを刺す狙いもあった。

槇文彦氏のときもそうだったが、相手が高名な建築家でも、建設が社業の一環である以上、予算オーバーは困る。創業者の𠮷田忠雄は建築物にあまりカネを使わなかったので比較されるのも嫌だった。

その後、ヘルツベルハー氏は「あなたが気に入ってくれるか、早く知りたいです」という手紙とともに、デザイン案を送ってくれた。シンプルで幾何学的なデザインで、一目で気に入った。

しかし珍しい設計だったので、日本でつくろうとするとかえって建設費がかさむことが分かった。当時、人件費や資材費が高騰していたこともあり、着工が大幅に遅れた。YKKの独身社員向けに黒部寮が完成したのは1998年だった。

YKKとYKK APの本社がある東京都千代田区の「YKK80ビル」の設計は、日本最大の設計事務所である日建設計に依頼した。しかし誰が設計の中心になるのかが気になる。多くの設計者のプロフィルなどを見せてもらい、当時は設計室長だった亀井忠夫氏(現会長)にメインプレーヤーになってもらった。

本社ビルに求められるものは何か、とあれこれ考えたが、一番重要なのは企業の哲学やアイデンティティーをどう形にしていくか、ということだと思う。その点、亀井氏は建築の知識が豊富なだけでなく、当社のことをよく理解してくれていた。

本社ビルの顔となるファサード(外装)をどんな考えで設計したのか。亀井氏に尋ねると「威圧的な外装は似合わない。家族的な企業風土や、オープンな気風、グローバル企業としての洗練されたイメージを表現すべきと思った」と答えてくれた。

設計は2011年に始まったが、3月11日に東日本大震災が起き、耐震性や事業継続計画(BCP)に対する考え方が大きく変わった。大地震が起きても被害を最小限にする免震構造を採用したほか、大容量の非常用発電機も設置し、備蓄倉庫も備えている。15年に10階建て、延べ床面積約2万1000平方メートルのビルとして完成した。

イタリアの建築家、アンジェロ・マンジャロッティ氏には建築の工業化について学んだ。彼の別荘に招待してもらうなど、プライベートな付き合いもあった。富山県黒部市の「くろべ牧場まきばの風」には、私の個人的会社である𠮷田興産のレセプションハウスがあるが、これは彼の事務所に設計してもらった。

世界の建築家と付き合っているうち、建築でものすごい収入を得ている人はごくまれだと分かった。それでも彼らはこれしかないと自分の信じた道を突き進んでいく。こうした姿勢は我々も学ぶべきと思う。

#26

社長車座集会

社長車座集会

「社長車座集会」で55歳以上の社員と対話(2009年、富山県黒部市)

社員と経験や失敗語り合う
全グループ4万人と理念共有

2008年、創業者・𠮷田忠雄の生誕100年を機に経営理念の浸透活動を始めた。その1つが4月に始めた「社長車座集会」。社長の私と十数人の社員が車座になり、理念について語り合う場である。とはいっても、忠雄の経営哲学「善の巡環(じゅんかん)」について私が説く集会ではない。

互いに経験談や失敗談を話しながら、YKKの原点や未来についても語り合った。私は入社数年目にインドネシアで善の巡環について講演したものの、忠雄と違って全然盛り上がらずにショックを受けた経験などを語った。

09年度は富山県黒部市、東京、大阪などで12回開いた。55歳以上の社員を集めた集会では、私が「余人をもって代えがたい存在になってほしい」と語りかけると、社員から「もう一花咲かせたい」との声が上がった。その後も毎年国内外で開催されている。

08年9月にはYKKグループの全社員が参加する「4万人社員フォーラム」も始めた。世界中の各拠点で忠雄の経営哲学を振り返る約40分のDVD映像を見た後、組織長を囲んで車座になって話し合う。14年、18年にも開いた。

07、08年には一橋大学名誉教授の野中郁次郎氏らを招いて2回のシンポジウムを開いた。その内容は記念出版物「YKK創業者𠮷田忠雄とその経営哲学『善の巡環』を語る」に収録している。

11年6月、私はファスナー事業のYKKと建材事業のYKK APの社長から退き、それぞれの会長兼最高経営責任者(CEO)に就いた。グループ中核2社の後任社長はYKKが猿丸雅之現会長、YKK APが堀秀充現会長である。

ともに創業家の出身者ではない。2人はそれぞれの事業に精通し、海外での経験もある。𠮷田家出身かどうかは条件として考えなかった。ちなみに私には4人の娘がいるが、誰もYKKグループには入社していない。

社長をやってもらうと告げたとき、猿丸さんは「私でいいんですか」と問い返してきた。私は何も言わなかった。いいんじゃない、と心の中で答えていた。

猿丸さんの後任として17年に社長指名した大谷裕明さんには「どうして私なんですか」と聞かれたが、笑って「頑張れ」とだけ答えた。

11年の社長交代の記者会見では「会長と社長の役割分担をどうするのか」と聞かれた。私は「『君は前を担げ、私は後を担ぐ』という関係で勝ち抜く」と答えた。

忠雄がよく使った言葉で、役割分担を初めから固定せず、テーマや案件によって得意な方が前を担いで先導するという意味で引用した。両社の会長CEOを兼務することでグループをうまく束ねたいとも思っていた。

経営者の力量はどうやって見極めるのか。YKKグループには国内18社、海外88社、合わせて106社の企業がある。これらの会社の社長を務めさせれば、その成果で実際の経営力が分かる。

18年にはYKKとYKK APの会長CEOを退いて取締役になり、20年には相談役になった。社長退任時は64歳で私自身が決めた上限年齢を守ることができた。取締役は自ら決めた73歳で退任した。

執行役員に上限年齢を設ける一方で、一般の社員については国内で65歳を上限としていた定年制を21年度に廃止した。年齢に関わりなく、能力を発揮してもらうためだ。日本で労働力人口が減少していることへの対応策でもある。