#23

企業統治と自戒

企業統治と自戒

当時社長の父、忠雄(右)と(1985年、富山県黒部市のYKK50ビル)

非上場でも上場並み意識
社長含む執行役員、上限65歳に

YKKグループの連結売上高は2023年3月期で9000億円弱の見込みだが、YKKも、その子会社であるYKK APも株式の上場はしていない。創業者の𠮷田忠雄は株式を「事業への参加証」ととらえ、額に汗して働く社員こそ株を持つべきだと説いていた。

2代目社長の私から見ても上場する必要がない。まず資金面。忠雄は社内預金制度や社員持ち株制度を設けて社員に貯蓄を促し、会社に集まった資金を設備投資に充ててきた。今も実質無借金経営を続けており、上場して資金調達をする必要性を感じない。上場による知名度や信頼度の向上も必要とは思わない。

YKKの筆頭株主は従業員持ち株会である「YKK恒友会」で、発行済み株式の2割強を保有している。社員が給与の一部を拠出して株購入に充てるもので、社員にとっては給与や賞与に加えて配当も収入になる。1人が1度に拠出できる限度口数が決まっており、給与の多寡にかかわらず、皆平等だ。社内預金と同様、社員には資産形成の手段、会社には設備投資の原資確保の手段になっている。

上場はしていないが、企業統治(コーポレートガバナンス)は上場企業並みを意識している。1999年には経営の執行と監督を分離する執行役員制度を導入した。日本企業で初めて採用したとされるソニー(現ソニーグループ)の2年後で、多くの上場企業と比べても早い方と言えるだろう。

2003年には社外の目で経営をチェックし、監督機能を強化する社外取締役制度を採り入れた。08年には社外取締役2人を含む任意の指名・報酬委員会を設けている。

忠雄と同様、私も性善説でモノを考える人間なので「チェック」とか「監督」といった言葉は元来好まない。しかし、様々なステークホルダー(利害関係者)の信頼感を高めることは重視している。それに役立つことならと、上場企業並みのガバナンスを目指している。

会社を律するだけではない。前述のように私は執行役員制度を導入した99年に、社長を含む執行役員の上限年齢を65歳とする内規を定めた。私自身の任期に制限を設けるものだった。私には自分を律しようとする傾向が強い。

なぜだろうか。日本を含む72カ国・地域に拠点をもつYKKグループを経営していると、世界中の色々な考え方を知ることになる。思想、宗教、文化は様々だ。それら多様なものを受け止めて共存していくには自らを律すること、さらには公正であることが必要だと感じる。

「経営とは何か」と問われれば、私は「多様な世界の中で、誰に対しても自分の言葉が通用すること」と答えたい。「普遍性」に近いイメージかもしれない。

グループ経営体制の改革についても議論を重ねてきた。経営企画室を中心に持ち株会社制の導入や、YKKとYKK APの合併などについても敢(あ)えて議論した。

持ち株会社制導入の選択肢では、持ち株会社がファスナー事業のYKKと建材事業のYKK APを傘下にもち、グループ全体の戦略を練るという案が検討された。

しかし持ち株会社制は見送った。グループ戦略を練る持ち株会社が、製造や販売の現場をもつ事業会社から遊離し、頭でっかちになるリスクがないとは言い切れない。後になって問題になるような選択をしたくなかった。

#24

建築家との交流

建築家との交流

槇文彦氏に設計を依頼した前沢ガーデンハウス(2017年撮影)

富山・黒部に国際的な寮
22物件で設計依頼 学ぶ機会に

米国留学中にニューヨークなどの摩天楼に圧倒された私は、雄大なものを生み出す建築家にも興味を抱いた。YKKに入社後、自社のビルや寮などの建設を通じて、尊敬する建築家と交流する幸せな機会に恵まれた。

最初のチャンスは1980年、私が33歳のときに訪れた。富山県黒部市にYKKの社有地があり、創業者の𠮷田忠雄は温泉を掘って若者向けの宿を建てようと計画していた。だが掘っても掘っても温泉が出てこない。忠雄に「地元のためにも何とかしろ」と新たな土地活用策の立案を命じられ、私は世界中から人が集まる国際的な寮を建てたらどうかと提案し、了承された。

設計を誰に依頼すべきか。親交のあったプロダクトデザイナーの泉眞也氏が槇文彦氏を紹介してくれた。槇氏といえば「代官山ヒルサイドテラス」や「幕張メッセ」などの設計で知られ、丹下健三氏の次の世代を代表する世界的な建築家だ。泉氏と一緒に槇氏を訪ねたが、依頼するのは地方の小さなプロジェクトで予算も少ない。断られるだろうと覚悟していた。

初対面の槇氏に恐る恐る説明すると「大きさや予算の問題じゃない。いつでも面白いことに挑戦していたいのが建築家という生き物です。一緒にいいものをつくりましょう」と少年のような笑顔で答えてくれた。以前から話をしてみたいと願っていた人に会えただけでもうれしいのに、設計を快諾してくれた。二重の喜びに舞い上がった。

引き受けてもらえたのは2つの理由があると思う。1つは「様々な国から人々が集まる大きな家」というコンセプトを槇氏が「面白い」と感じてくれたのだろう。

もう1つは槇氏の建築を私なりに一生懸命勉強していたことではないか。国内はもとより、海外の建築物も足を運んで見に行った。だから熱意が伝わったと感じている。

設計に1年を費やした後、82年に地名を冠した「前沢ガーデンハウス」が竣工した。白を基調とした建物が緑に囲まれて映える。忠雄が「いい建築はやっぱりいいなあ」と漏らしたのを聞き、ホッとした。外国人研修生の寄宿舎や迎賓館として活用し、YKK創業50周年の84年には元米大統領のジミー・カーター氏をお泊めした。

前沢ガーデンハウスは私が発注企業の代表などとして、コンセプトづくりや建築家との交渉などに携わった最初の物件で、今までに計画中の1件を含めて22件を手掛けている。世界的な建築家に第1号を設計してもらったことはとても幸運だったし、貴重な勉強になった。

YKKグループの建築物で外国の建築家に設計を依頼した物件も3つある。富山県黒部市のYKK黒部寮がその一つだ。90年ごろだったと思うが、新聞で1枚の写真を見たのがきっかけだった。

記事を読み、オランダの建築家、ヘルマン・ヘルツベルハー氏が設計した独ベルリンの集合住宅だと分かった。低所得者用で質素な外観だが、どの住戸からも太陽が見えるなど必要な機能はしっかり備えている。いい意味で「ケチ」な建築に魅了された。

黒部市の古い独身寮を建て替える必要があったので、ヘルツベルハー氏の建築を勉強し、海外出張の際にオランダ・アムステルダムにあったオフィスを訪ねた。同氏は見知らぬ日本人が何をしに来たのかといぶかしげに私を見る。そこで低所得者用住宅に惹(ひ)かれた理由を説明した。