#21

窓戦略

窓戦略

「埼玉窓工場」からトラックで初出荷(埼玉県久喜市)

サッシとガラス一体供給
反発覚悟で業界に変革迫る

話は前回のファスナー事業から建材事業に移る。2004年ごろ、業界団体の日本サッシ協会の会合で私はYKK APの社長としてこんな話をした。

「これから当社はサッシ屋ではなく、窓をつくる窓メーカーとしてやっていきます」

出席者の多くはきょとんとした表情をしていたが、やがて、この「窓メーカー宣言」が業界関係者の反発や怒りを買うことになる。業界の慣行に変革を迫ったからだ。

日本の住宅業界ではサッシメーカーが窓枠となるサッシを、ガラスメーカーが窓ガラスをつくる。建材流通店がこれらを組み合わせて窓を完成させ、工務店やハウスメーカーに納めていた。当社はガラスの原板を調達して自社工場で窓を完成させることにした。流通店は「窓を組み立てる我々の仕事を奪うのか」と色めき立った。

流通店は我々がサッシ代の請求書を出す大切な取引先だ。その反発を覚悟のうえで「窓メーカー」になる意志をはっきりさせた。目的は窓の製造者としての責任を明確にし、窓の魅力や品質を高め、家を建てる人や住む人の満足度を向上させること。例えばサッシだけを出荷する従来方式の場合、当社による品質保証期間は2年だが、窓として出荷する場合は日本初の10年とした。

窓を饅頭(まんじゅう)に例えると、サッシは皮にすぎない。ガラスという餡子(あんこ)と組み合わせて初めておいしい饅頭ができる。こう考えると、窓メーカーになることが非常に重要に思えてくる。

考えてみればファスナーも建材も部品事業である。ファスナーは開け閉めする持ち手の付いた「スライダー」や、洋服に縫い付ける「テープ」などを組み合わせて一つの製品に仕上げている。その性能、デザインの良しあしが洋服や鞄(かばん)の価値を決める重要な部品だ。

ではファスナーの事業領域(ドメイン)をさらに広げるとどうなるか。洋服やバッグを生産したことはないが、領域をどこまで広げるか、あるいは広げないかは経営上重要なテーマだ。市場の変化などを踏まえ、頭の中で常に最適な領域を模索している。

一方、建築物の重要な部品は住宅なら窓、ビルならファサードになる。窓は施工も含めて性能・デザインなどで建築家や施主の要求に応えなくてはならない。

YKK APは05年、「APW」というブランド名で窓商品の第1弾を発表した。ただ、サッシのみを出荷する従来型の事業を全てやめたわけではない。窓事業への転換を進めながら、サッシ事業も並行して続けた。

当社の窓メーカー戦略は、ガラスメーカーも面白くなかっただろう。当社が住宅用窓のすみ分けを崩し、主導権を握ろうとしたからだ。ただ、実際に窓メーカーになろうとすると「やわしい」ことが色々と出てくる。

「やわしい」は私の郷里である富山県の方言で、標準語に訳せば「複雑」だろうか。当社は課題が多くても嫌がらず、ドンドン前に進もうと覚悟を決めていた。実際、窓メーカーに脱皮するためには全社的な改革が必要だった。

生産面では窓メーカーになるために総額で約360億円の設備投資をした。埼玉県久喜市に「埼玉窓工場」を建設し、11年7月に操業を始めた。サッシだけの出荷と異なり、窓を住宅の建設現場へ安全に届けるには需要地に近い必要があった。14年9月には神戸市でも「六甲窓工場」が稼働した。

#22

窓学

窓学

窓と猫のテレビCM

建築家・大学と探究活動
歴史や文化語った書籍も出版

YKK APが「窓メーカー」宣言をすると、競合のサッシ会社が顧客に「ウチも窓メーカーなんですよ」と言い始めた。ただ当社は窓メーカーとなるため、あらゆるビジネスモデルを転換した。

「窓工場」には工作機械部門による自社製の窓専用ラインをつくった。例えば埼玉県の窓工場では窓ガラスに特殊な加工をする設備を導入。ガラスの表面に金属膜をコーティングするもので、透過性を保ちつつ断熱性能を高めた。

窓枠にも新しい素材を取り込んだ。その一つが樹脂を使う樹脂窓だ。日本の多くの地域で窓枠はアルミが主流だが、寒冷地の北海道や欧米などでは樹脂窓が普及している。当社の検証では、樹脂は熱伝導率がアルミの約1400分の1なので、室内を夏は涼しく、冬は暖かく保ちやすい。2009年には本州で販売を始めた。

樹脂窓をつくるには樹脂製の枠とガラスを接着する技術などが要るので、アルミサッシの窓のように流通店が組み合わせることは難しい。だから当社の工場で窓を完成させる必要があった。価格はアルミ窓より高いが、樹脂窓も設備の減価償却が進めばより安く提供できるようになる。

窓メーカーとしての認知度を高めようと、07年には企業の方針を簡潔に表現する広告タグラインに「窓を考える会社YKK AP」を採用した。しかし住宅を建てようとする消費者が広告を見てくれても、当社の営業担当者がじかに消費者に窓を売り込むことはできない。家を建てる人に直接対応するのはハウスメーカーや工務店などの住宅建設会社だからである。

そこで05年、東京・品川に窓のショールームを設けた。当社の営業担当者が全国の工務店などを案内すると、次には工務店などが家を建てる人を連れてくるようになった。

窓のリフォームを強化するため、10年に新店舗ブランド「MADOショップ」の展開も開始。建材流通店などが参加し、店舗数は約1000店に達している。全社的な取り組みが実り、現在の住宅事業ではサッシと窓の割合が6対4になった。よくここまで来た。

17年5月には当時の天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后両陛下)が56年ぶりに富山県黒部市の当社施設をご訪問になられた。皇后陛下が私に「昔はファスナーだけだったように思いますが、今は『窓』がもう一つの柱になったのですね」と声を掛けてくださり、大変うれしかった。

事業を離れて考えても、窓は世界各地の文化や文明を反映しており、興味が尽きない。窓の歴史を知りたくて海外出張の際に書物を探し続けたが、見つからなかった。そこでドイツ建築博物館の館長などを務め、親交のあったヴィットリオ・ランプニャーニ氏に探してほしいと頼んだ。

だが窓の歴史書はないという。「それならあなたが書いてください」と食い下がったら、彼から「色々な人に窓への思いを語ってもらうのはどうだろう」と提案された。それで1995年に当社が出版したのが「アーキテクチャー・オブ・ウインドー」。26人が窓の歴史や文化などについて語ってくれた。筆者には建築家の槇文彦氏、安藤忠雄氏らが名を連ねている。

窓への思いは、2007年に立ちあげた「窓学」にも繫(つな)がっている。建築家や大学とともに窓を学問として探究する活動で、窓の知見を蓄積していった。当初は社内組織だった「窓研究所」は財団法人にした。広く建築文化の向上に貢献していきたい。