#17

造反か謀反か

造反か謀反か

YKKアーキテクチュラルプロダクツの社長就任会見(前列中央が筆者、1990年5月)

父・忠雄に建材改革迫る
別会社・システム化で納期改善

1988年に欠品問題が起きた𠮷田工業(現YKK)の建材事業は問題山積で、販売店離れも進んでいた。もはや忠雄と議論を続ける時間はない。対症療法では立て直せないと判断し、覚悟を決めた。

副社長になっていた私は、9月の経営会議でこう述べた。「建材事業を立て直すには当社を建材の会社に変えるか、別会社をつくるか。2つに1つしかない」

二者択一を迫ったのだが、前者はかなり刺激的な発言だった。祖業は創業社長の𠮷田忠雄が始めたファスナー事業なのだから。「ファスナー事業をないがしろにするのか」という反発の声が出てもおかしくない。むしろ、そのくらい真剣に受け止めてほしかったが、そうした声は出なかった。当時の経営会議には建材に詳しい役員がほとんどいなかった。建材事業の深刻さを訴えるため、驚かせるような発言をしたのである。

「ファスナーの鬼」とも呼ばれた忠雄は86年9月、執務中に脳血栓で倒れていた。このとき77歳。しかし1年の治療・リハビリを経て車椅子で会社に通うようになり、社長の座にもとどまり続けた。

その忠雄も承諾のうえで、建材の別会社をつくる道が選ばれた。90年にグループ企業の𠮷田商事を母体とした新会社、YKKアーキテクチュラルプロダクツ(現YKK AP)が発足する。従来は𠮷田工業が生産、𠮷田商事が販売を担っていたが、これ以降はYKKがファスナー、YKK APが建材と事業別の体制に移っていく。

YKK APの社長には別会社化を提言した私が就任した。𠮷田工業の副社長と兼務だったが、7割以上の力を建材事業の改革に振り向けた。

増やしすぎた販売会社は統合を進めていった。忠雄が社員に経営を経験させようと96社まで増やした販売会社は、90年に1県1社の体制に集約。さらに2001年には、ほぼ全ての販売会社をYKK APが吸収合併した。

こうした改革に対して「二代目の造反だ」との声も上がった。私は「造反ならいい。謀反じゃないんだから」と笑ってすましていた。

確かに販売会社を増やすという忠雄の路線は修正した。しかし商品分野別に責任者を置くなど、社員に大きな仕事をさせるという忠雄の考え方は生かしている。私は「善の巡環(じゅんかん)」をはじめとする忠雄の経営理念を継承しているが、時代に合わせて変えるべきところは変えた。

製品が今どこにあるのか分からないという物流管理の問題では、大急ぎでコンピューターシステムを構築することにした。社内で決定した翌日、日本IBMの副社長を呼んで「1年以内にプログラムを完成させ、部分的に利用できるスピードが必要です。それ以上は待てません。できますか」と迫った。

「1年で」というのは言葉の弾みもあったが、急がないと販売店離れがさらに進むという危機感があった。それに日本IBMは当社のファスナー事業のシステムを担当していたので、ゼロからのスタートではなかった。日本IBMは当社の依頼を引き受けてくれ、システムが稼働すると納期が劇的に短くなった。

「アーキテクチュラルプロダクツ」という社名に込めた意味も語りたい。建築物のために「アート」と「テクノロジー」を融合させた製品をつくりたい。モノづくりの会社として、美しさと技術を兼ね備えた建築部材を提供したいとの思いを込めている。

#18

社長就任

社長就任

𠮷田工業の社長就任会見(中央が筆者、1993年7月)

父、現役社長のまま急逝
「家業経営型」脱却へ社名変更

𠮷田工業(現YKK)の創業社長、𠮷田忠雄は1986年9月3日に脳血栓で倒れた。その後、忠雄が務めていた取締役会の議長は、忠雄の次兄で会長だった𠮷田久松が引き継いだ。副社長だった私は新たに代表権をもった。忠雄は社長のままだった。倒れる前から常々「わしは死ぬまで社長を辞めない」と言っていた。

忠雄は1年間の治療・リハビリを経て車椅子で会社に来るようになった。後継社長を誰にするつもりなのか、忠雄は語らなかったし、私も聞かなかった。忠雄にとって社長を辞めるということは死を意味するからだ。心血を注いで会社を興した忠雄にとって、生きることと経営することは不可分だった。

忠雄は93年7月3日、入院先の慶応大学病院で肺炎のため84歳で永眠した。自らの言葉通り、現役社長のまま亡くなった。数日前まで自宅で私に仕事の話をしていたので急逝だった。本人は健康になることが自らの使命と信じ、もっと社長を続けるつもりだったに違いない。

東京都港区の増上寺で7月6日に営まれた告別式には、親交の深かったジミー・カーター元米大統領が訪れた。

29日の社葬では宮澤喜一首相、黒澤洋・日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)頭取が弔辞を述べた。興銀は当社がファスナー製造で本格的な機械化に乗り出した50年に融資してくれた銀行であり、特別中の特別な存在だった。

忠雄の後継社長として私を推す声が上がった。忠雄の息子だから推すというだけでなく、欠品問題が88年に表面化した建材事業を立て直した実績も評価されたのだろうと思っている。

とはいえ、90年に建材事業の新会社、YKK APの社長になっていたので、ファスナーの𠮷田工業と2社を同時に経営できるか不安を感じ、一度は辞退した。

しかし「グループの一体感が大切だ」との声が上がったので、引き受けることにした。声を上げたのは私の入社1、2年目の上司だった村井正義、西崎誠次郎の両専務だったと思う。

7月21日の取締役会で2代目社長に選任された。同時に村井、西崎の両専務が代表取締役副社長に昇格し、私を支える体制になった。忠雄の次兄、𠮷田久松の長男である隆久副社長も新たに代表権をもった。

社長就任時に私はまだ46歳だった。その後、あらかじめケジメをつけた方がいいと思い、99年に執行役員制度を導入した際に、社内規定で執行役員の上限年齢を65歳に決めた。社長も執行役員の一人なので、社長としての私の"定年"も65歳ということになったのだが、実際には64歳で自ら退任している。

上限年齢を決めたのは、社内外にあらかじめ上限を示しておかないともう1年、もう1年とズルズル延ばしかねないと思ったからだ。第二の人生をスタートさせるためにも区切りが要る。

翌94年の年頭挨拶で、私は𠮷田工業からYKKへの社名変更を発表した。YKKは忠雄が設立した𠮷田工業株式会社の頭文字だが、戦後に商標とし、ファスナーにも刻印したため、会社の通称にもなっていた。

だが単に「YKK」の普及・浸透に社名を合わせたのではない。「会社は𠮷田家のものではない」ことを明確にする思いを込めている。忠雄も同じ考えだったはずだ。