#15

建築物の顔

建築物の顔

YKK APファサード社の設立記者会見(右が筆者、2007年)

建材のF1「ファサード」
多国籍の海外現法で取り組み

米国留学時代に高層ビル群に囲まれたキャンパスで学び、建築に魅了された私は、1970年代半ばから𠮷田工業(現YKK)の海外事業部でビル建材に関わることになった。だが創業社長の𠮷田忠雄はビル建材が嫌いだった。ファスナーのように大量生産によりコストを下げるという手法が使えないからだ。

忠雄とは何度も議論したが、平行線をたどり続けた。やがて「この人とビルの話をしてもダメだな」と思うようになった。

私がビル建材を志向するほど、忠雄との溝は深まった。忠雄は冗談交じりに「ビルも住宅と同じ。何十階建てでも、平屋を積み重ねればビルになる」と話していた。積み木のイメージに近い。物事の本質をシンプルに捉えるのは忠雄の優れた資質だが、ビルと住宅はやはり違う。

ビルは高くなるほど、使われる建材の技術的な難易度も高まる。超高層ビルの最上階は風も強いし、地震による揺れも大きい。同じ窓でも平屋建ての住宅とは求められる性能が違う。

シンガポールでは82年に34階建てビルの外壁であるカーテンウオールを受注できたが、実際に手掛けると高層ビル特有の厳しさが分かってきた。一筋縄ではいかない世界がある。覚悟を決めて挑戦しなければならない。

海外でビル向けの建材事業を展開するうち、キーワードは建築用語の「ファサード」だと感じるようになった。建築物の外装や外観を意味する言葉で、ビルの「顔」と言える。当社では外壁であるカーテンウオールのうち、メッセージ性が高く、超高層、高難度のものをファサード事業と呼んでいる。技術の最高峰であり、自動車レースで言えばF1のようなものだ。

世界にはF1の常連のようなファサードの会社が数社あり、我々も参戦して世界のナンバーワンを目指したいと思った。そのために2008年、シンガポールで「YKK APファサード社」を発足させた。

これが従来とは全く異なるタイプの会社になった。世界が市場とはいえ、超高層ビルの建材需要には限りがある。06年度の当社推定では、ファサードの世界市場規模は3600億円だった。

この分野はメーカーというより、エンジニアリング会社としてのスキルが求められる世界である。そこで工場は建設せず、エンジニアリングとプロキュアメント(調達)に特化した組織を立ちあげることにした。

建材の発注先も自社に限らず、どこでも構わないとした。ファスナー事業では自前主義、内製主義を重視してきたが、大型プロジェクトのファサードを構成する材料は多岐にわたるので、自前で対応することは現実的ではないと考えたからだ。建築主を満足させるような意匠、性能、工期、コストを実現するために最適な調達を実現する能力が求められる。

F1のように世界一を目指すチームのメンバーも多様な顔ぶれになった。ファサード社グループの社員数は約250人だが、国籍は11カ国に及んでいる。

誰が見ても唸(うな)るような大型プロジェクトに挑戦することで、YKK APの技術力を証明できると考えた。さらに、ファサード社で培った技術を標準的な製品にも広げていく必要がある。そのため、日本にいる20代の若手社員をトレーニーとしてファサード社に出向させている。

#16

ナイKK

ナイKK

2008年に完成したモード学園スパイラルタワーズ
(名古屋市)

アルミサッシ欠品で混乱
大量生産モデル、時代とズレ

超高層ビルや難易度の高いビルの外装を我々は「ファサード事業」と呼ぶが、その技術は日本でも花開いていく。

東京都墨田区の東京スカイツリーでは、高さ450メートルの位置にある「天望回廊」のファサードを担当した。名古屋市のモード学園スパイラルタワーズでは、三角形のガラスを7145枚使い、文字通り、らせん状の外観を実現している。

建築史に残るようなビルやタワーはその雄姿を永くとどめ続ける。だから当社のファサード担当者は子や孫に「あれを見てごらん」と指さし、自分も建設に携わったと語れる。誇らしいことであり、恵まれた仕事だと思う。

だが永遠に残ると思うと怖くなってくる。ある期間が過ぎると消えるなら気が楽だが、そうはいかない。製造者としての責任がいつまでもつきまとう。子や孫に誇れる半面、事故などのリスクをずっと背負い続ける仕事といえる。ファサードを受注するかどうかは、そういう責任を感じながら決断することになる。

ファサードには別の顔もある。一度でも手掛けるとその魅力に取りつかれ、利益を度外視してでも、またやりたくなるという。このため麻薬に似ているとも言われる。正直なところ私も多少"中毒"になったことがある。もちろん個人的に溺れかかったというだけの話ではなく、会社の技術力やブランド力を高められたと思っているが。

ここで当社の建材事業の歴史を振り返ると、1962年度に初めて売り上げを記録し、10年後の72年度には日本一のアルミサッシ会社になっていた。80年代にトーヨーサッシ(現LIXIL)に抜かれるまで首位を走っていた。

転機は88年に訪れた。深刻な欠品問題が起きたのである。バブル期なので需要は旺盛だったが、生産や販売が追いつかない。商品がない、納期に間に合わないという事例が相次ぎ、「YKKじゃなくてナイKKだ」と皮肉られる始末。当社の製品を取り次ぐ販売店が「客に逃げられる」と悲鳴を上げ、危機的な状況に陥った。

創業社長の𠮷田忠雄は製品を規格化して大量生産し、コストを下げるという手法で会社を大きくしたが、時代の潮流とのズレが生じていた。住宅用出窓のデザインなどで消費者の好みが多様化しているのに、品ぞろえが間に合わなかった。生産者主導の「プロダクト・アウト」から消費者本位の「マーケット・イン」に転換すべきだったが、この点でトーヨーサッシに先行を許してしまった。

グループの販売会社を増やしすぎたことも問題の一因だった。忠雄はなるべく多くの社員に経営の経験を積ませたいと考えており、国内の販売会社を一時96社まで増やしていた。それだけ社長のポストを設けたわけだ。人材育成には役だったが、商品の数が増えると小さな販社では管理能力が追いつかない。

加えて製造と販売を結ぶ物流管理システムができておらず、混乱に拍車がかかる。ある商品の在庫がどこにどれだけあるのか把握できず、焦った販社同士で電話を掛け合い、商品を融通し合うなどパニックに近い状態だった。

当時はまだ𠮷田工業(現YKK)がファスナーと建材の両方の事業を手掛けていた。カリスマ的な創業社長、忠雄には経営方針の転換を進言しにくい。世界首位を走るファスナー事業の担当役員は、建材事業の混乱ぶりを冷ややかに見ていた。