#13

建材事業

建材事業

1959年に導入した米国製のアルミ押出機

住宅用アルミサッシで飛躍
ビル向け進出めぐり父と論争

YKKと言えば洋服やバッグに付いているファスナーを思い浮かべる人が多いだろう。だが子会社のYKK APでは住宅の窓やビルの外装など建材事業を手掛けている。

𠮷田工業(現YKK)が建材に参入するきっかけは1959年、米国からファスナー製造用としてアルミ・銅用の油圧押出機を2台輸入したことだった。創業社長の𠮷田忠雄はファスナーを製造するだけでは飽きたらず、原材料や機械、製造ラインまで遡って自社生産することで品質を高めようとした。「川上遡上主義」である。

押出機の導入でファスナーに使う以上のアルミ合金を生産できるようになったので、有効活用するためアルミサッシという新しい事業分野に進出したわけだ。

実は建材事業を始めたのは忠雄の長兄で、私の実父である久政だった。久政は忠雄のファスナー事業を手伝うだけでなく、何か自分でも事業をやりたいと考えていたようだ。私にも実の父が始めた事業をしっかり育てたいとの気持ちがあったように思う。

66年に発売した住宅用の「ハイサッシ」がヒットして事業は急速に拡大した。71年度には建材の売上高が約260億円とファスナーを超える。私が入社した72年には、後発ながら早くも住宅用で日本一のアルミサッシ会社になっていた。ファスナーで展開してきた大規模投資、大量生産をサッシ事業にも応用した忠雄のすご腕だった。

私が建材事業に本格的に取り組むようになったのは、74年に海外事業部の企画室長になってからだ。海外での会社設立や海外事業の企画が主な仕事だった。

当時はファスナーも建材も𠮷田工業で手掛けていたが、ファスナーの方は既に23カ国・地域に進出していたうえ、外資規制などのため新規に設立できる国が限られてきていた。そこで建材事業の海外展開に目をつけた。

当時、新聞記者から「ファスナー、建材に続く第3の領域は何か」と盛んに質問された。直接的な回答は避けたが、今後の事業展開について2つの条件を挙げた。一つは国際展開できること、もう一つは1000億円規模への成長が見込まれることだ。

2つの条件を満たすのが建材の海外展開だとにらみ、海外では地域色の強い住宅用より、ビル用の建材がいいと考えた。ではどこがいいか。

いきなり現地生産はできないので、当面は日本から建材を輸出することになる。そうなると米国や欧州では遠すぎる。日本から近いアジアで、法律がしっかりしており、高層ビルが建ち始めていたシンガポールが最適な市場だという判断に至った。

ただ、ビル用建材への進出は忠雄との確執を引き起こした。忠雄は大量生産でコストを下げるビジネスモデルで「ファスナー王」になったが、ビル用建材事業は設計者の要求に合わせて部材をつくるオーダーメード方式だったからだ。そんな事業は成り立たない、と忠雄は考えていた。

忠雄が「ビル用はやるな」と言えば、私は「ビル用もやらなければ建材事業を大きくできない」と言い返す。さらに「ファスナーのように規格品だけではビル用建材はできない」と言って言い争いになったこともある。社員食堂で一緒に昼食を取っているうちに議論になり、午後3時ごろまで続くこともあった。こういう言い争いをすることは忠雄の目を開かせることであり、役立っていると考えていた。

#14

インドネシア

インドネシア

シンガポール・シティテレコムにて(左が筆者、1984年)

建材で初の海外一貫生産
自社製押出機に「ノー」で批判

建材事業の海外展開をシンガポールから始めようと1975年、現地調査に出かけた。アルミの押出材を売り込むためサッシ加工店を回ったが、当時のシンガポールでは鉄が主流で「アルミは要らない」とにべもない。

色々と聞き回った末、ビル向けに2000万円の注文を取れた。海外で建材の受注はこれが初めてだっただろう。創業社長の𠮷田忠雄には「仕事で海外に行くなら手ぶらで帰ってくるな」と言われていたのでホッとした。

翌76年、同国に建材事業では海外初となる現地法人を設立した。目的は主に2つ。1つは受注量を安定させるため高層集合住宅用の窓枠を鉄からアルミに転換していくこと。鉄よりアルミの方が軽いし、さびにくいなどの利点を売り込んだ。

もう1つは日本で食い込めなかった高層ビルのカーテンウオールをどんどん手掛け、実績をつくることだ。カーテンウオールとは高層建築向けに軽量化された外壁のことで、建物を支える機能は柱や梁(はり)に任せ、文字通りカーテンのようにビルの内と外を仕切る。

建材事業の海外展開で第一歩を踏み出す重要な拠点なので、当社でエース級と呼ばれた社員を集めてシンガポールに送り込んだ。技術面の責任者には後に副社長となる岡元宣昭を据えた。ビルの世界に本格参入する決意の表れだった。彼は設計から施工まで技術全般に携わり、日本からの技術者に多くの現場を経験させ、人材を育ててくれた。

海外で初めて本格的なカーテンウオールを受注したのは82年。「ゴールドヒルプラザⅣ」という34階建てのオフィスビルで、カーテンウオールの総面積は1万2000平方メートル。受注金額は当社の国内向けビル用建材の1年分に匹敵した。建設現場を2度視察したが、空に向かって立ち上がっていく雄大な姿を見て感激し、当社の技術力を象徴する物件になると確信した。

シンガポールに次ぎ、香港でも82年にアルミサッシの生産・販売を始めた。次に照準を合わせたのがインドネシアで、86年にアルミ建材で海外初の一貫生産工場をもつ現地法人を設立した。

工場建設の際、押出機を2台導入することになった。当社の工作機械部門も押出機を独自開発していたが、私は費用対効果が最も高いものを選びたいと考え、社内の工機部門と社外の5社で相見積もりを取ろうとした。

ただ「𠮷田工業(現YKK)は自社で押出機をつくっており、技術情報が漏れるから見積もりは出せない」と断ってきた会社もあった。もっともな話である。

私は各社の見積もりを見てヒアリングもした後、自社の押出機に「ノー」を突きつけた。社内の工機部門は「価格では絶対に負けない」と意気込んでいたが、メンテナンスを含めたサービスに問題があった。最終的には総合判断で宇部興産(現UBE)1台、当社の工機部門1台になった。

これが社内に波紋を広げた。先に「川上遡上主義」と書いたが、製品の質を高めるために材料や機械まで内製化するのは創業社長、𠮷田忠雄の経営方針であり、当社のDNAと言える。工機部門が2台納入できて当然と考えていたから、私を「非国民」と非難する声が上がった。

私は内製にかける情熱や努力を否定したわけではない。だが社外との競争に勝つことが条件のはずだ。いい事例を残したと思っている。