#11

土地っ子になれ

土地っ子になれ

米国でカーター氏の母リリアンさん(右から2人目)を訪問。左端が筆者(1977年)

現地化の心構え、父が実践
カーター元米大統領からも信頼

𠮷田工業(現YKK)の創業社長、𠮷田忠雄は海外45カ国・地域で現地法人や工場をつくった。グローバル経営の先駆けといえるだろう。しかし忠雄は1977年に「私の履歴書」で「こちらから行きたくて海外へ行った例は一つもない」と書いている。

できれば日本で生産して輸出したいが、輸出先の国で輸入を制限されることが多かった。関税が典型で、55年のファスナー輸入関税は日本の20%に対し米国は66%。通産省(現経済産業省)に「関税をフェアにしてほしい」と訴えてもかなわなかった。

一方、洋服のメーカーなど輸出先の顧客企業は「こっちに出てきて製品をつくってほしい」と頼んでくる。それに応えるのが現地化の出発点だった。海外でも「企業は社会の構成員であり、共存してこそ存続できる」という「善の巡環(じゅんかん)」の思想は変わらない。

日本から海外に派遣される社員に忠雄は「土地っ子になれ」と説いた。現地に生まれたつもり、永住するつもりで溶け込めという意味だった。だから海外に赴任する社員の現地勤務期間が長く、20年、30年に及ぶ人もいた。今も平均で通算11年である。

オランダのスネーク市(現スドウエスト・フリースラン市)で64年に工場が完成したときのこと。日本から赴任した工場長は英語もあまり得意でない人だったが、一生懸命にオランダ語を勉強して工場稼働の記念式典に臨んだ。オランダ語でスピーチしたら、聴いていた現地の人が驚いた。「日本語はなんてオランダ語に近いんだ」

今も語り継がれる笑い話だが、このときの工場長は忠雄の理念に従い、現地に溶け込もうとしたのだろう。私も「郷に入れば郷に従え」という言葉のように、現地の文化をよく勉強して交流することがグローバル経営の基本だと考える。日本のやり方を押しつけるのではなく、相手国のやり方を尊重することが重要になる。

米国では74年、ジョージア州メーコン市(現メーコン・ビブ郡)に海外初となる原料からの一貫生産工場を建設した。当時、米アパレル業界の生産拠点がニューヨークなどから人件費の安い米南部に移りつつあり、その動きに対応するためだった。

工場誘致に熱心だったのが当時の州知事で、後に第39代米大統領となるジミー・カーター氏である。工場が完成すると米国と日本の国旗を持った人が集まって歓迎してくれたが、忠雄は私の進言を受けて「ここはアメリカですから日本の国旗は要りません。米国の国旗と当社の社旗でお願いします」と言った。

この言葉がカーター氏の信頼感を深めたようだ。現在、YKKグループは海外71カ国・地域に88社を展開しているが、日本から政府首脳が訪れる場合などを除き、日本の国旗を掲げている会社はない。

州知事だったカーター氏は公邸に忠雄や私を招き、州の有力者を30人ほど集めて歓迎のパーティーを開いてくれた。忠雄はこのとき「善の巡環」の経営哲学を説明し、地域への貢献を誓っている。

カーター氏は忠雄をもてなして「泊まっていきませんか」と再三勧めた。最上級のもてなしである。しかし忠雄は丁重に断って辞去した。「自分のことは自分でする」ことを徹底していた忠雄は旅行中もパンツやワイシャツを自分で洗っていた。残った私たちが「ホテルの方が気兼ねなく洗濯できると思ったのだろう」と話すと、カーター氏は大笑いした。

#12

米大統領就任式

米大統領就任式

カーター家と𠮷田家の記念撮影(左端が筆者、後列右端が忠雄氏、2人目がカーター氏、1984年)

カーター氏から父母招待
家族ぐるみの付き合い続く

米ジョージア州にファスナー工場を建設したのをきっかけに、同州知事だったジミー・カーター氏と𠮷田工業(現YKK)の創業社長、𠮷田忠雄の交流が始まり、深まっていく。1976年、カーター氏は民主党の大統領候補に指名され、共和党の現職ジェラルド・フォード氏を破って見事当選。第39代米大統領となる77年1月の就任式に忠雄夫婦を招待した。

忠雄にとっては大変な栄誉だった。76年12月11日に結婚式を挙げた私と敬子は、新婚旅行で1週間ほど米国に行く予定だった。しかし忠雄に「君たちも同行しなさい」と言われ、我々も大統領就任式に出席することになった。

これでは12月に新婚旅行で米国に行き、いったん帰国して、再び大統領就任式のために渡米することになる。そこで米国での新婚旅行はキャンセルすることになった。新婚旅行は箱根で1泊に変更し、帝国ホテルで結婚式を挙げると、そのまま私の運転するクルマで箱根に出かけた。翌日、両親も住む自宅に戻ると、父が敬子をハグし、母はうれし涙を流して迎えてくれた。

77年1月20日、米ワシントン。大統領就任式の演説でカーター氏は「ともに学び、ともに笑い、ともに働き、そしてともに祈ろう」と米国民に呼びかけた。忠雄は「あの演説は『善の巡環(じゅんかん)』を基にしている」と言った。確かに同じような理念だと私も感じた。

就任式後、カーター氏の故郷プレーンズでご母堂リリアンさんにお会いした。別れ際の言葉「幸せな家庭を築いてね」は忘れられない。

カーター氏が81年に大統領を退任した後も、家族ぐるみの付き合いが続いている。1984年にはYKKの創業50周年式典に出席するために来日し、そのときに奥さん、娘さんとともに富山県黒部市の我が家を訪ねてくれた。記念撮影の写真には私と敬子の娘4人も一緒に収まっている。カーター氏は穏やかで親しみを感じさせる、大変素晴らしい人だと思う。

私もカーター氏が理事長を務める研究機関の理事となり、年に1回は米国を訪れるようになった。フィリピンで低所得者層向けに家を建てる事業のとき、彼はボランティアとともに汗を流して働き、私も手伝った。自ら現場に赴いて働く、というところは忠雄に似ている。忠雄はよく私に「ねまり弁慶のごたむき」になるな、と戒めた。富山の言葉で「現場に行かず、座ったまま偉そうに指示する人」という意味である。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著書で知られる社会学者エズラ・ボーゲル氏に、YKKが帝国ホテルで開く新年会で講演してもらったことがある。氏は忠雄とカーター氏の共通点を2つ挙げた。「田舎生まれの田舎育ちで、勤勉実直」というもので、私もその通りだと思った。

忠雄が亡くなった後もカーター氏との付き合いは続いている。彼は東京・六本木にあった小さな焼鳥屋が好きで、東京に来るたびに私に連れて行けと言った。数えたら14回以上通っていた。元米大統領だから日本でも顔は知られている。人が集まると物騒だが、客が誰もいないのも面白くないだろうから、会社関係者を店に集めて客のフリをさせた。サクラだと彼は気づいていないようだった。

カーター氏はたまに私の会社経営について「忠雄が言っていたようにやっているか」と尋ねることがある。忠雄の小言を聞いているような気分になる。