#07

就職先に迷う

就職先に迷う

米ノースウエスタン大学のビジネススクールを修了
(1972年)

新人にも値段 米社に魅力
父の勧めで結局𠮷田工業に

米ノースウエスタン大学のビジネススクール(通称ケロッグ)を1972年に修了し、社会人になる時がきた。だが、どの道を選ぶかで迷ってしまった。

一つは帰国して、𠮷田忠雄が設立したファスナーメーカー、𠮷田工業(現YKK)に入社する道である。ただケロッグの同期生の間では、親が経営する会社を敬遠する人も多かった。親の七光で自分が正当に評価されないのは嫌だし、自分が入社することで親の経営判断がおかしくなっても困る、という理由だった。

もう一つは米国の企業に就職する道だ。デュポンなどでのサマージョブの印象が良かったこともあり、就職活動をしてみることにした。

日本の新卒採用と異なり、米国では学生が企業に対し、自らの能力を積極的に売り込む。企業は学生を評価して報酬を提示する。だから初任給は一律ではない。ケロッグにも企業が学生のスカウトに来ていた。私も自分にどんな値段がつくのかを知りたくなり、𠮷田工業の創業者の子であることを明かしたうえで、何社かにセールスポイントを訴えた。日本企業の大卒初任給の7倍を提示してきた企業もある。

日用品・医薬品大手のジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)では「わが信条」(クレド)という企業理念にひかれた。「我々の第1の責任は患者や医者、看護師、親をはじめとする、すべての顧客に対するものである」という一節で始まり、第2に「世界中でともに働く全社員」を挙げる。資金提供者である株主を最優先する他の米国企業と異なり、どこか𠮷田工業に似ていると感じた。

前述のように忠雄は鉄鋼王、カーネギーの伝記を少年時代に読んで「他人の利益を図らずして自らの繁栄はない」という考え方に共鳴。50年代の後半には「善の巡環(じゅんかん)」と呼ぶ経営哲学をつくりあげていた。

企業は社会の重要な構成員であり、共存してこそ存続できる、と忠雄は考えた。企業活動で得られた付加価値の分配先として顧客、取引先と、経営者や社員を含む自社の3者を挙げた。株式は「事業への参加証」と位置づけ、額に汗して働く社員が持つべきだとしたので、株式の上場は目指さない。

米国企業か𠮷田工業か。心は揺れたが、現地で働きたいとの思いが強まり、帰国して忠雄に「米国企業で経営を勉強したい」と訴えた。忠雄は「なるほど。それも悪くないな」とうなずく。続けて「ウチに来ればもっと早く経営を学べるぞ」と言った。

相手の意見をいったん「なるほど」と肯定的に受け止め、「それなら」と切り返すのが忠雄流の説得術だった。経営を勉強したいと言った手前、もう断りにくい。それに留学費用を忠雄に出してもらったことは頭の片隅、ではなく、ど真ん中にある。𠮷田工業への入社を決めた。

とはいえ、この時点で忠雄の後を継ぐなどとは考えていなかった。入社前にヤシカ(後に京セラが吸収合併)の創業者である牛山善政氏に会う機会があり、こんな話を聞いた。「苦労して創業した会社は誰にも渡したくない。息子であってもだ。譲るくらいなら消してしまいたいと考えるほどだよ」

創業者の思いとはそういうものか、と深く心に残った。忠雄も同じかもしれない。まだ仕事を始めてもいない者に、後を継げなどと軽々には言えないに違いない。

#08

原価計算課

原価計算課

1972年の入社時

経営の核心担い、重圧も
2年目は海外の客先飛び回る

1972年、𠮷田工業(現YKK)に入社した。米大学のビジネススクールが6月修了だったので、正式入社は8月である。最初の配属先は富山県黒部市にある黒部工場の経理部原価計算課だった。

創業者、𠮷田忠雄の厳命であり、えらいところに行かされると思った。地味な部署だと思う人がいるかもしれない。地味なら楽なのだが、私は派手だと思った。原価計算は経営の基礎中の基礎であり、重圧を感じた。工場の寮に住み込んで原価計算に没頭する日が始まった。

原価とは材料費や労務費など製品を提供するのにかかった費用であり、我々のようなメーカーにとって、一番大切なのは製品の原価をきちっと把握することだ。原価が決まれば売値との差額から利益が決まり、競争力が決まる。原価で会社の命運が決まってしまう。そういう意味で、会社のど真ん中の部署だった。

適正な原価を求めて原価計算をするのだが、いつも下げることばかり考えるとは限らない。品質向上のため、より良い材料を使って逆に原価を上げることもある。またファスナーには洋服やバッグに縫い付ける「テープ」などもあるので、この部分の原価を計算することも必要である。モノづくりの現場である工場に出入りしながら、様々な原価を計算した。

上司には後に副社長として社長になった私を支えてくれた村井正義さんがいた。創業者の子という特殊な立場にいる私をしっかり仕込まなければと気を使っていたようだ。原価計算の鬼のような人だった。怖い鬼ということではなく、厳しい鬼ということだ。鬼はあちこちにいて、鬼の最たるものが忠雄だった。

原価計算課で印象深かったのが「声出し」だ。長い廊下の両端に上司と新入社員がそれぞれ立ち、新人が大きな声で報告の練習をするのである。上司との距離は10メートル以上離れていたと思う。普通の声量では上司に聞こえない。「もっと大きい声で」とか「もっとはっきり」と注意された。そこで更(さら)に大きな声を出す。

声の大きさや発音の正確さだけでなく、話す内容も問われた。ポイントを簡潔に述べなければならない。プレゼンテーションの練習といえるが、大声を出すなど、いかにも体育会的な雰囲気だった。米大学のビジネススクールで科学的、分析的な教育を受けて帰国したばかりなので少々驚いた。だが、そのギャップが面白いとも感じた。慶応大学でスキーの同好会が体育会的だったこともあり、結構ギャップを楽しんでいた。

2年目は仕事ががらりと変わった。東京本社の海外事業部である。原価の次はマーケットを学べ、というわけだ。73年に初めて欧州に出張するなど、日本を飛び出して顧客企業を訪問して回った。当時、世界での市場シェアはまだ小さかったが、急速に成長していた時期だったので、仕事の面白さやダイナミズムを肌で感じることができた。

海外でのファスナーの販売状況を見ると、順調な地域もあれば、そうでない地域もある。なぜ、そうなっているのか、それぞれの原因を分析して、何か日本から支援できることはないかと考えた。

海外事業部での上司は村井さんと同様、後に副社長となる西崎誠次郎さんだった。創業者の忠雄に欧州進出を進言し、「じゃ、君が行ってきなさい」と言われて海外に行った人である。1、2年目の部署、上司を振り返ると意図的な人事だったと思う。