#03

大腸カタル

大腸カタル

自宅で父母と庭いじり

病弱な体、運動で鍛える
自動車や船の操縦に熱中

子供の頃、私は体が弱かった。3歳のとき、丼いっぱいの枝豆を食べ過ぎて大腸カタルになってしまった。病弱だが、食に対する欲求はとても強かった。要は食いしん坊だったのである。母の駒子は私を溺愛していたので、食べたいと言えば何でも好きなだけ食べさせてくれた。

一時は医者が「もう助からない」と見放すほど危険な状態に陥ったが、ドイツから輸入した薬を飲んだおかげで何とか一命を取り留めた。ただ小学生の頃はずっと胃腸の調子が悪かった。おかげで両親から「勉強しろ」と言われずに済んだが。

私の大腸カタルに、母はかなりショックを受けたようだ。愛情深く育てようと心に誓っていたからだ。

父の忠雄も私を叱らなかった。会社では社員をバンバン叱りながら教育していたのに、なぜだろうか。まだ精神的に柔弱な子供に恐怖心を植え付けるのはよくない、という教育哲学からだった。だが私にはかえってプレッシャーになった。叱ってくれた方が楽だったかもしれない。

忠雄も私の大腸カタルが心配だったのだろう。「消化のよい食べ物をよくかんで食べなさい」と注意した。スポーツで体を鍛えろとも言った。

その言葉に従って中学校ではまず剣道をやり、次にバスケットをやった。

当時は千葉県市川市に住んでいた。中学受験で慶応の中等部と普通部を受験して失敗し、東京都千代田区の九段中学に越境入学していた。バスケットボールのチームは区内の大会で上位に食い込んでいたと思う。「体を鍛えるためです」と言えば好きなスポーツをやらせてもらえたので内心「しめしめ」と思った。

スポーツとともに興味があったのがクルマの運転だ。小学4年生、10歳のときに富山県にある𠮷田工業(現YKK)の工場内で、会社の運転手にせがんで運転の仕方を教えてもらった。乗せてもらったのは忠雄のクルマで外車だったと思う。

動くものを操縦することに喜びを感じる人間で、父が「クルマは危ないから」と代わりに買ってくれたモーターボートを富山で乗り回したこともある。後に米国でセスナ機を操縦したこともある。将来、カーレーサーになりたいと思ったこともある。

会社の経営で忙しい忠雄だったが、休日には家庭菜園で野菜や花の世話をするのが常だった。草花の植え方や鍬(くわ)の持ち方などを、手本を示しながら私に教えてくれた。モノづくりの会社を経営しながら農業にも関心が深く、「日本の農業は工業化が必要」などと持論を語っていた。趣味の範囲は特に広いわけではないが、やる以上はなんでも一生懸命やる人で、凝り性だった。

忠雄は私の少年時代から「アメリカへ行け」とよく言っていた。「行け」というのは米国で「暮らせ」と「働け」の両方の意味を込めていたと思う。父が興した𠮷田工業は早くから会社の国際化を進めており、1960年には早くも米国に現地法人を設けている。世界を相手にビジネスをしていたので、その中心である米国に住み、学び、働くことの重要性を伝えたかったのだろう。私は「ああ、そうか」と受け止めていた。疑問はもたなかった。

父が「米国へ行け」というなら、米国のハイスクールに通いたいと思った。父は叱らず、手も挙げない。両親とも愛情豊かに私を育ててくれたが、束縛と感じることもあったのかもしれない。

#04

スキーに没頭

スキーに没頭

高校の制服姿で父母と東京五輪を観戦(1964年)

大学同好会で年90日冬山に
卒業後のNY留学は期待外れ

「(将来は)アメリカへ行け」。𠮷田工業(現YKK)の創業者で父の𠮷田忠雄は、私が小・中学生だった頃から、こう言っていた。そこで東京の区立中学を卒業したら米国のハイスクールに通うことも考えた。父母から離れて暮らしたいとの思いもあった。だが語学力が十分でないということで結局、見送った。

高校受験は慶応を目指した。中学受験で慶応の中等部と普通部を受けて落ちたから、もう失敗できない。真剣に勉強した。忠雄から「勉強しなさい」と言われたことはないが、無言のプレッシャーを感じた。合格して当然と言われている気がした。合格したときはうれしく、ホッとした。

ちなみに私は1947年に生まれた「団塊の世代」である。同世代の人間が多いので、若い頃から前進するには競争に勝たなければいけないと思っていた。

65年に慶応大学に進み、法学部を選んだ。文系では経済学部の人気が高い慶大だが、世界を見据えて仕事をするには法律が大事だという意識があった。

慶大法学部では労働法を専攻し、不当労働行為などの勉強をした。これは忠雄から「労働組合の委員長になれ」と言われていたことが影響している。忠雄は「ウチの会社は労組が経営をよく理解しているので成り立っている」と語るなど、非常に労組を重視していた。経営者と労働者を対立の構図でとらえず、「社員は皆、経営者」と話していた。こうした考え方は私にも刷り込まれている。

大学では高校で中断していたスポーツを再開。雪国の富山出身ということもあり、スキーに打ち込んだ。滑降、回転、大回転などで競うアルペンの同好会に入った。レベルは体育会並みに高かったと思う。ケガをしないかと忠雄は心配だったようだが、「体を鍛えるための運動」という大義名分があるので、やめろとは言わなかった。スキーヤー同士が衝突するなどのリスクがあるスポーツだが、私は要領がよく、むちゃをしなかったので骨折はしていない。

多いときは年間に90日ほど乗鞍岳などの山にこもる生活を送っていた。スキーに対する熱意、技能が評価され、2、3年生のときにキャプテンを務めた。部員は30人くらいだったと思うが、リーダーシップを学ぶいい勉強になった。今でも雪が降るとスキーを連想してうれしくなる。

69年3月に慶大を卒業し、父の言葉通り、いよいよ米国に留学することになった。留学先について母が心配したので𠮷田工業の顧問弁護士に相談すると、ニューヨーク大学のビジネススクールを薦めてくれたので、そこに決めた。

英語力は大学で身につけたわけではないが、米国人は誰でも英語を話しているのだから、米国に行けば何とかなるだろうと高をくくっていた。実際に行ってみると大変だった。会話は大丈夫なのだが、英語で論理を組み立てて議論をするのが難しかった。

ニューヨーク大学の校舎に通い始めたが、期待外れだった。私は経営を学びたかったのに、教わったのは金融・証券のマネーゲームだったからだ。

しかも寮がグリニッジ・ビレッジにあり、ベトナム戦争反対運動の真っただ中だったので、ヒッピーがたむろしていた。多くの作家や芸術家が集まった街だが、当時の私はスキーで鍛えた体育会系の人間である。これでは勉強できないと見切りをつけることにした。