#01

ファスナー王

ファスナー王

最近の筆者

創業者の息子として育つ 父母から実子のような愛情

私は、YKKを創業して「ファスナー王」と呼ばれた𠮷田忠雄の一人息子として生まれた。後を継いで2代目社長となり、建材事業の子会社、YKK APの社長も兼務してグローバル化を推進した。今、YKKグループは非上場だが、日本を含む72カ国・地域で事業を展開しており、売上高は9000億円に近づいている。

一つだけ訂正したい。私は忠雄の実子ではない。

忠雄は姉1人、兄2人の4人兄弟の末っ子だった。自らに子は生まれず、私は長兄の久政と妻ミサホの子だった。だが私は出生時から忠雄の子として育てられた。実子ではなく、養子であることを明かすのはこれが初めてになる。

私は1947年、忠雄と同じ富山県魚津市で生まれた。小学生の頃、近所の商店に買い物に行くと、こんなふうに聞かれることがあった。

「あんた、誰の子か」

「お前、どこの子だ」

2、3回尋ねられた記憶がある。変な質問だなと思っていた。かといって直接「両親」に尋ねることはできなかった。特に「母」の駒子には聞けない。母は「この子は我が家の皇太子」と言いながら、愛情深く育ててくれた。ただ周囲からチラチラと聞く話なども合わせて考えると、どうやら実の両親ではないように思われてきた。

「実はね……」と母が涙ぐみながら経緯を明かしてくれたのは、私が中学生か高校生のときだったと思う。きっかけは学校から戸籍の写しの提出を求められたことだったろうか。母の悲しむ顔を見たくなかった私は「そんなこと気にしなくていい。そんなの前から知っていた」と答えた。

母は少し驚いたような顔をした。この日の会話を駒子は忠雄に伝えたと思う。だが、出生の件について忠雄が私に直接話したことは一度もない。私から聞こうとしたこともない。母が話してくれたから、それで十分だと思った。

裸一貫で事業を興した忠雄は77年8月にこの欄、日本経済新聞の「私の履歴書」を執筆した。その中で自らの結婚相手について「体格の良い女性を」と望んでいた。体格の良い子をたくさん欲しかったのだろう。駒子は忠雄の希望を満たしていたが、子供は生まれなかった。

忠雄も私を大切に育ててくれた。つらかったのは「自分は忠雄の実子ではない」と誰にも打ち明けられなかったことだ。物心ついた頃には忠雄がカリスマ的なすごい社長だと分かっていたので、私が告白すれば爆弾発言のようになってしまう。

忠雄は社員を大事にする大家族主義的な経営をしており、よく「社員は皆、私の子供だ」と言っていた。「忠裕もその一人」とも話していた。「ワン・オブ・ゼム」というわけだ。そう言われると気が楽になった。救われた。

二世、二代目と言われて育てられた以上、死ぬまで黙っていようかとも考えた。

しかし「謙虚に、明るく」を心がけて今日まで生きてきた。創業者の息子だからと威張るのは格好悪いと思い続けてきた。人を動かすには明るく振る舞うことが大切だと考え、しんどいときでも笑顔を忘れないようにしてきた。

忠雄の後を継いでYKKグループを率いるのは大変だったが、幸いファスナー事業を拡大し、建材事業でも「窓」を2本目の柱に育てることができた。出生の件で守ってきた秘密が失われるという喪失感はあるが、割り切って打ち明け、半生を振り返ろう。

#02

善の巡環

ファスナー王

幼少期に父、忠雄と

不屈の父、経営哲学継ぐ
大空襲で工場失うも再出発

ファスナーの𠮷田工業(現YKK)を創業した𠮷田忠雄には兄が2人いた。長兄の久政は温厚で、次兄の久松は活発な性格だった。2人の兄は忠雄の事業を手伝い、𠮷田工業の役員を務めている。私の祖父、久太郎は毛利元就の教えを引いて、3兄弟に「矢は1本ずつバラバラだと弱いが、3本一緒なら強くなる」と話していたという。

忠雄は1908年に現在の富山県魚津市で生まれた。少年時代に竹の皮を売って得たカネで網を買い、魚を捕って儲(もう)けるなど早くも商才を発揮している。尋常小学校の高等科を卒業後、上京して東京・日本橋の中国陶器輸入商、古谷商店で働く。

上海で商品の仕入れをするなどの経験を積むが、商店は破産。4年間寝食を忘れて働いた忠雄はボロボロと涙を流す。店を整理したときに出てきたのが、副業として手掛けていたファスナーの半製品だった。代金未払いだったが、仕入れ先に頼んで半製品を扱わせてもらい、34年にファスナー加工販売のサンエス商会を設立する。25歳だった。

38年には江戸川区の小松川に工場を建設するが、45年の東京大空襲で焼失。忠雄は天を仰いで「(米爆撃機)B29などには負けんぞお」と叫んで再起を誓い、従業員におカネを配って再会を呼びかけた。同年には魚津市に拠点を移し、買収先を𠮷田工業に社名変更して再スタートを切る。

忠雄は原材料や機械まで自社で製造する「川上遡上主義」で品質を高め、大量生産でコストを下げ、国内のファスナー市場で圧倒的なシェアを握る。海外展開も早く、59年にはインドにプラントを輸出し、ニュージーランドに初の海外現地法人を設立。93年に亡くなるまでに45カ国・地域に工場や事業所を設け、世界のトップブランドを築いた。

忠雄は少年時代に米鉄鋼王カーネギーの自伝を読んで感銘を受けた。その中の「他人の利益を図らなければ自らの繁栄はない」という言葉を軸に「善の巡環(じゅんかん)」という経営哲学を打ち立てた。ステークホルダー(利害関係者)の間で好循環をつくり出すといった意味合いだが、「善」と「巡」の字を使っている。

中でも強調したのが「成果3分配」。事業は社会のためという理念に基づき、企業活動で得た付加価値は顧客、取引先、それに経営者や社員を含む自社の3者に分配すべきだと説いた。海外に現地法人を設ける場合も同じで、原則として利益は現地に還元し、撤退もしない。忠雄が「善の巡環」を構築したのは50年代後半で、私は小学生の頃からこれを聞かされて育った。

勤め先の破綻を機に起業し、空襲で工場を焼かれても立ち上がる。逆境で発揮する強さはとてもマネできない。何度も修羅場をくぐってきた忠雄の語録には実感がこもっていた。例えば「もう紙一枚の努力を」。他人と同じ努力では他人を上回る成果は得られない。これ以上の努力は無理だと感じたときにもうひと頑張りせよという意味である。

「失敗しても成功せよ」という言葉も今日のYKKグループで語り継がれている。役員や社員が仕事で失敗すると、忠雄は失敗した者に次のチャンスを与えるとともに、失敗談を会社が共有すべきケーススタディーとして語り続けた。工場の「𠮷田忠雄記念室」で「企画展 𠮷田忠雄『心の世界』―「叱る」「諭す」「導く」―」が催されたこともある。失敗自体は責めないが、最終的には成功を求める厳しさがあった。